大審問官 2)

2022年7月30日

前回はドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」において、イワンが自作の叙事詩“大審問官”を語り始める前までをお話しました。今回はいよいよ“大審問官”の内容に入ります。

叙事詩の舞台は16世紀のスペイン南部セヴィリアです。当時のセヴィリアはローマカソリック教会の異端審問による弾圧が激しかった時代です。大審問官は異端審問を取り仕切る責任者で、年齢は90ぐらいですが眼光鋭く背筋も伸びています。国王をはじめとした宮廷人や騎士たちの臨席の下、無数の市民の前で大審問官が100人におよぶ異端者を焼き殺した翌日に、キリストが現れたところから叙事詩は始まります。

キリストは無言で静かに歩いているだけにも関わらず、民衆はすぐにその人だと悟り、キリストを取り囲みます。盲目の老人の目が見えるようになったり、死んだ女の子が生き返ったり、聖書で書かれている奇跡が次々起こります。民衆は歓喜のあまり泣き出し、彼が歩いた足跡にキスをします。

この様子を見た大審問官はキリストの降臨に喜ぶどころか、不愉快そうに眉根を寄せ、彼を捕らえて牢獄に入れるよう、そばにいた護衛に命じます。大審問官の絶大な権威に従うように馴らされている護衛と民衆は、凍り付いた沈黙の中、その命令に素直に従います。

その夜、大審問官は牢獄にキリストを一人訪ね、キリストに向かって語り始めます。

「1500年間も何もせず放置しておき、今になって出てきて何をするつもりだ。今更我々の邪魔はさせんぞ」。大審問官はキリストを威嚇します。

「人間は昔から確固たる掟に従って生きてきた。だがお前が1500年前に出てきて以来、人々はお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを“自由”な心で決めなければならなくなった。お前は人間にこんな恐ろしい自由に耐えられると思っていたのか?」

「お前は数々の奇跡を起こしたが、自分のためには奇跡を起こさなかった。悪魔に『石をパンに変えてみろ。そうすれば人間どもはお前に従順について行くだろう』とそそのかされた時、お前は『服従がパンで買われたものであるなら、何の自由があろうか』と拒絶した(マタイによる福音書第四章)。悪魔が寺院の頂上にお前を立たせ『下に飛び降りてみろ。もしお前が神の子なら、天使がお前を受け止め、お前が正しいことを証明してくれるだろう』と言ったときも、お前は飛び降りて神を試そうとしなかった」。

「お前が十字架にかけられたとき、人々が愚弄し,『神の子なら十字架から降りてみろ』とからかったときもお前は降りなかった。それもこれも、お前が奇跡による信仰ではなく、人々の自発的で自由な信仰と愛を望んだからだ。お前は囚人の奴隷的な歓喜を望まなかった」。

「なぜこんなことを人間に望んだのだ?誓ってもいい。人間はお前が考えるよりもはるかに卑しく、常に隷属する相手を探しているものだ。どんな人間にとっても自由と地上のパンは両立しない。何故なら彼らはお互いに分かち合うことができないからだ」。

「ごく一部の人間はお前の言う“自由”に耐え、神の道を歩むことができるだろう。私もその道を求め、荒野に住み、いなごと草の根で命をつないだことがある。しかし、仮に私が天への道を見つけられとしても、残りの大多数の卑しく弱い人間たちはどうしたらいいのだ?“自由”を与えられたがために盲従する対象を失い、常にパンを奪い合う人間は幸せになれないのか?」

「だから私はお前の偉業を修正した人々に加わり、『大切なのは心の自由な決定でもなければ愛でもなく、良心に反してでも盲目的に従わなければならない神秘なのだ』と人々に告げることにしたのだ」。

「神を裏切り、人々にウソをついた我々は罪をかぶることになるだろう。しかし、私はお前など恐れてはおらん。審判のとき、自分たちが罪を冒したとも知らず、喜んで我々に盲従してきた何億という幸せな民をお前に見せつけて言ってやる『彼らのために罪をかぶった我らを裁けるものなら裁いてみろ』とな!!」

大審問官が長年じっと胸のなかに秘めていた思いの丈を述べ立てるのを、キリストは柔和な顔でじっと注意深く聞き、何一つ言いません。

“人間は愚かな生き物である”との前提で今の統治システムが出来ていると聞きます。盲目的に従うべき“正しいこと”が一般民衆に示され、思考を支配者たちにコントロールされているのは、16世紀のスペインも、19世紀のロシアも、そして現代の日本でも同じです。

もっとも現代の日本の場合は、大審問官のように“人間に対する深い洞察と愛”から人の自由を奪っているのではなく、支配者側の欲得のために我々を洗脳しようとしているように見えます。コロナが一番分かりやすい例で、恐怖をあおって人々を操り、自分たちの集金システムに組み込もうとしています。手口が露骨で稚拙になってきています。役者の質が落ちていますね。

何百何千年と続いて来た、従来の統治システムの欺瞞が徐々に明るみになってきているのは、我々が氣付き、新しい世界への入り口にさしかかっている兆しかもしれません。

新しい世界は欺瞞のない世界かもしれませんが、そこに至る道のりはとても厳しいものでしょう。いみじくも大審問官が言ったように“自由な善悪の選択”ぐらい厄介なものはなく、自らの心を浄め、心の奥底に深く問い、世界に調和をもたらす選択しなければならないからです。内在の神を信じ、明るい未来を確信していなければ、とてもできないようにも思います。

現代社会の欺瞞を暴き、騒ぎ立てる人は多いです。でも、そういう人たちと迎合し徒党を組んで人々をあおり立てては、新しい欺瞞を作るお先棒を担ぐことになります。煽動された人々は扇動者に操られます。扇動者は暴いた真実をわめきちらし、その裏側にこっそり秘密を隠すものです。

多くを学び、たくさんの情報を集めても何が正しいのか分からない、どのように“自由”な判断をしたらいいか分からない、誰と連携すれば良いか分からない、正しい判断をしたからと言って褒めてもらえるとは限らない。こんな不安に耐えきる覚悟が必要な時代だと思います。

確かに自由ほど面倒で厄介なものはありません。それでも悪魔の誘惑を拒絶し、覚悟を決めて前に進むしか道はありません。やりきれる人は多くはないでしょうし、私も怪しいです。。

さて、小説に戻ります。キリストは大審問官の目をまっすぐ見つめ、注意深くじっと聞いています。思いを語り尽くした大審問官はその沈黙がとても重苦しく、どんな厳しい非難でも構わないから、何か言って欲しくてたまらなくなった瞬間、キリストは無言のまま大審問官の唇にそっとキスをします。

おっしゃれやなぁ。たまりませんよ。こんなにかっこ良くキリスト礼賛をされると参ってしまいます。

言葉にならないイワンの声が聞こえて来ます。「薄汚く卑劣で破廉恥な、このくそったれの世界を俺がどれほど嫌い、呪い、そしてどれほど狂おしいほどに愛しているか分かってくれたらなぁ!」

あまりにも偉大すぎるロシアの文豪に、改めて最敬礼いたします。こんな素晴らしい文学を残して頂き、心より感謝申し上げます。初めて”カラマーゾフの兄弟”を読ませて頂いた40年前から今まで、イワンの「底なしの絶望と狂おしいほどの愛」はずっと私の中で生き続けています。

あみんこと網野忠文

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異端審問の歴史的背景については、以下の動画が参考になります。