我をとり無となる

「我で汚れて真実が見えない」という言い方を時々聞きます。会社の同僚でも、自分の主張を決して曲げず、どんなに言っても自分の思う通りにやろうとする人がいます。私が技術開発をし、彼が評価をするのですが、専門外の彼が自己の技術的主張を曲げようとせず、自分の言う通りのものを作らそうとします。彼の承認なしには仕事が前に進みませんので、長い押し問答の末に彼の言う通りにして失敗に終わり、また彼が別のアイデアを出して失敗に終わるということを続けています。全体を見通さずに自分勝手な思い込みを押し通して、技術開発ができるはずもないのですが、それが彼には分かりません。この私の同僚は「我で汚れて見えない」の典型です。

あまり喜ばしいとは言えない話から始めてしまいましたが、言いたいのは我が強いと、自己の利益の追求や奪い合いがまかり通り、心地よく過ごすことができないということです。

こんなことを言っている私も、できれば彼を変えたいと思っている「我の強い」人間の一人です。それでも何とか、今の状況に落ち込まずに俯瞰的に見ると、自分の果たすべき役割が少し見えてきます。それが何なのかを今は言えませんが、そのうちお話できると思います。

それでは“我が無くす”とどうなるのでしょうか。前衛書道家の山本光輝先生は、「無となり、透明なストローのような存在になって宇宙の偉大な存在からのエネルギーを筆に伝える」ことを目標にされているそうです。先生の書からは光が放たれ、場を浄化できます。先日、山本先生の書の写真集「光の書」を購入しました。この写真集を拝見していますと確かに自分が鎮まっていくのを感じます。

先日(12/20)、大野一道先生のレッスンで、鎌倉時代の禅僧として名高い大燈国師の掛け軸を拝見しました。

掛け軸には浄躶々赤洒々(じょうららしゃくしゃしゃ)と書いています。大野一道先生の美術品は全て撮影禁止ですので、写真を撮れないのがとても残念です。

禅の言葉で、浄躶々はまる裸で一点の汚れもないところをいい、「赤(しゃく)」とは、一糸も掛けず、一物も持たない、はだか、むき出しのこと。「洒々しゃしゃ」とは、はっきりして清浄なこと。すなわち、見栄も欲も外聞も捨てて、少しも隠すところなく、人間としてありのままの素裸の状態を「浄躶々、赤洒々」という。

(参照サイト:http://rinnou.net/cont_04/zengo/100201.html)

掛け軸からは浄さととてつもない厳しさ、そして微動だにしない大燈の在りようが伝わってきます。

大野先生はこの掛け軸が、これからの自分の道を示してくれているとおっしゃいます。そうありたい物だと思います。